【5/11生まれ】サルバドール・ダリの名言12選

西ヨーロッパ

特徴的な髭の画家といえば、サルバドール・ダリ。彼のあの有名な髭は、17世紀の宮廷画家ベラスケスへのオマージュでもありました。ここでは、そんなダリと関わりの深い人物たち――フロイト、ガラ、ピカソ、そしてダリ自身について触れていきます。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク

ダリの名言

ダリ
「私はドラッグをやらない。私自身がドラッグだからね。」

 

アラン・ワッツ
「私が本当に言いたいのは、あなたは何もする必要がないということです。なぜなら、もしあなたが自分自身を正しく見ることができれば、あなたもまた、木々や雲、流れる水の模様、揺らめく炎、星の並びや銀河の形と同じように、自然の驚くべき現象の一部なのです。」

 

 

ダリ
「何も真似したくないと思う者は、何も生み出さない。 」

 

ルネ・ジラール
「人間とは、何を欲すべきかを知らない存在である。だからこそ、他人を参考にして自分の欲望を決めようとする。
私たちが他人の欲望を模倣するのは、彼らが欲するものを私たちも欲するようになるからだ。」

 

 

ダリ
「狂人と私との違いは一つだけ。狂人は自分が正気だと思うが、私は自分が狂っていることを知っている。」

 

G・K・チェスタトン
「狂人とは、理性を失った者ではなく、理性以外のすべてを失った者である。」

 

 

ダリ
「真の芸術家とは、ひらめきを受ける者ではなく、人にひらめきを与える者である。」

 

ジョン・F・ケネディ
「リーダーシップとは、現実を受け入れることではなく、ひらめきを与えることだ。」

 

 

ダリ
「完璧を恐れるな――どうせ決して到達できないのだから。」

 

ミケランジェロ
「完璧とは些細なことではない。しかし、それは些細なことの積み重ねでできている。」

 

 

ダリ
「毎朝目覚めるたびに、私は再びこの上ない喜びを味わう――それは、サルバドール・ダリであるという喜びだ。」

 

フェルナンド・ペソア
「最も痛ましい感情、最も刺すような感情とは、不条理な感情だ。
――それは、不可能であるがゆえに求めてしまう“不可能なものへの憧れ”。
決して存在しなかったものへの郷愁。
あり得たかもしれないことへの願望。
自分ではない誰かになれなかったことへの後悔。
世界そのものの存在への不満。」

 

 

ダリ
「フロイトの頭蓋はカタツムリだ!彼の脳はらせん状で、針で取り出すようなものだ!」

 

フロイト
「それまで私は、シュルレアリストたちを、完全に──たとえば95度のアルコールのように──狂人だと考えていた。だが、あの若きスペイン人の率直で狂信的な眼差し、そして疑いようのない技術的な卓越さに触れて、私は自分の見方を改めざるを得なくなった。」

 

 

ダリ
「彼女は私のグラディーヴァ、前進する者、私の勝利、私の妻となる運命だった。」

※ 「グラディーヴァ」とは、もともとはヴィルヘルム・イェンゼンの小説『Gradiva』に登場する架空の女性の名前で、のちにフロイトがこの物語に精神分析的な解釈を加えたことで、特別な象徴的意味を持つようになった。

 

ガラ
「奇跡を信じない。私はそれに頼っている。」

 

 

ダリ
「ピカソはスペイン人、私もそうだ。ピカソは天才、私もそうだ。ピカソはコミュニスト、私は違う。」

 

ピカソ
「私はコミュニストである。なぜなら、私は人間であり、画家だからだ。」

 

 

ダリ
「私は一度だけ女性とした事がある。それはガラだった。大したことはなかった。
私は一度だけ男性とした事がある。それは有名なジャグラー、フェデリコ・ガルシーア・ロルカだった。とても痛かった。」

 

ダリ
「若い女性の頬をバラにたとえた最初の人間は、明らかに詩人だった。
だが、それを繰り返した最初の人間は、おそらく愚か者だった。」

 

ダリ
「未熟だった幼き日の魂が、年を重ねるにつれて、理性と美しさを備えた建物のように形を整えていくのなら、
私は学びたい。誰かに教わることはできない、人生だけが私に刻みつける全てを。」

 

【ダリとフロイト】

ダリは母の死をきっかけに芸術家を志し、ロルカの紹介でピカソと出会いますが、人生の転機となったのはロシア出身のガラとの出会いでした。恥ずかしがり屋の少年から世に知られているダリ像に変貌していきました。
彼女の影響でシュルレアリスムに傾倒し、「夢」や「無意識」をテーマに独自の創作法「カギの昼寝(Dormir con una llave)」などを築いていきます。

このシュルレアリスムの思想的背景には、フロイトの精神分析とマルクスの革命思想がありました。学生時代からフロイトの著作に没頭していたダリにとって、彼との対面は念願でした。

ナチス占領下のウィーンからロンドンへ逃れたフロイトと、ようやく会うことが叶いますが、その会話はやや期待外れなものでした。フロイトは「古典的な絵では無意識を探すが、君の絵では“意識”を探すことになる」と評し、ダリはそれを侮辱と受け取ったとも言われています。
この後、ダリは「フロイトの頭蓋はカタツムリだ!彼の脳はらせん状で、針で取り出すようなものだ!」と語り、彼の精神構造を象徴的に描きました。
一方フロイトにとってもダリとの出逢いは意外性のあるものでした。
彼はシュルレアリスムの活動をする者たちにあまり良い印象を持っておらず、芸術に対する彼自身の好みは保守的な傾向があったため、前衛的な表現にはあまり感銘を受けていませんでした。
そんな折、フロイトは、ダリとの出逢いによって、シュルレアリスムに対する見方を少し改めたとされています。

【ダリとガラ】

ダリの成功の陰には、ガラの存在がありました。彼女は彼のインスピレーションの源であり、作品を世に広める優れたマネージャーでもありました。ダリは「絵は本妻、ガラは愛人」と語るほど彼女を特別視しており、ガラもまたダリの作品をダリ以上に重んじている節をダリに見せていました。

しかし私生活では複雑な関係で、アメリカ滞在中のガラは他の男性たちと関係を持っていたとされます。ダリはそれを良しとしなかったのかスペインへ帰国しました。しかし、スペインでは彼女はダリが贈った城に若い恋人と同棲し、ダリはその城に入るために許可が必要という関係になってしまいました。

ダリはそんな手に負えないガラだからこそ、晩年は彼女を神格化した様な絵を描いていたのではという見解もあります。ダリの作品ではしばしば、「Gala Dalí」と連名で署名するなど、彼女が芸術と現実を結ぶ特異な存在であったことがうかがえます。やがてガラが亡くなった約一年後、ダリは絵を描くことをやめています。

【ダリとピカソ】

ダリとピカソは、芸術観も女性観も対照的でした。ダリが自身の内面にあるガラを描いたのに対し、ピカソは女性の本質を外から暴こうとするアプローチでした。

1936年に始まったスペイン内戦の終結後、政治的な対立があり、シュルレアリスムの弾圧が本格化すると、ダリの友人のロルカが処刑されました。
それでもダリはフランコ政権を支持し、体制に迎合する姿勢を見せ、一方のピカソは反フランコの共産主義者として活動しました。1934年の段階で、ダリはシュルレアリスムのグループからも距離を置かれていきました。なぜなら、ダリの作品の《ウィリアム・テルの謎》がマルクス主義者のレーニンを侮辱していると捉えられまったからです。

さらにダリはフランコに承認されたいからか、ピカソの批判まで始めます。ただ、ピカソはそんなダリの行動を面白がっていたとも言われています。ただし、ダリとガラから手紙が届いても返事は出さなかったそうです。また、ダリに対し同情と好意を抱いていたと語っています。

ダリは1947年に描いた『ピカソの肖像』で、彼への複雑な感情を表現。頭上の石は芸術家としての重責、口にくわえたスプーンは、ピカソが「cullera(スプーン)」の発音が苦手だったことをからかった風刺とも言われていますが、芸術的敬意とも取れるという解釈もあります。

【ダリと自身】

ダリは、潜水服での講演、オノ・ヨーコと髭、リーゼントにフランスパン、チュッパチャプスのロゴ制作など話題に事欠かない人物でした。
『記憶の固執』『ロブスター・テレフォン』『ガラの晩餐』など夢と狂気、食欲と性欲、エロスとグロテスクが交錯する芸術作品を多く残しています。

その背景には、過保護な家庭環境、亡き兄とのアイデンティティの葛藤、そして性への恐怖といった、幼少期に刻まれた深いトラウマがありました。
原爆投下をきっかけに、彼は科学に強い関心を抱くようになり、後年にはかつて崇拝していたフロイトから距離を置き、代わって物理学者ハイゼンベルクを“精神の父”と称するようになります。

ダリは分子構造やDNA、反物質といった現代科学のモチーフを作品に取り入れ、芸術と科学の融合を試みました。
彼にとって芸術とは、自らの存在を証明する手段であり、同時に世界の根源的な謎に迫る探究でもあったのです。

幼少期の傷、ガラとの複雑な関係、それらが作品となって現れたダリの人生は、果たして救いだったのか、それとも覚めることのない夢だったのでしょうか。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
西ヨーロッパ

寄付(donation)

タイトルとURLをコピーしました