様々な勢力の軍事上の需要な拠点にも関わらずダゲスタン共和国には中世から現存する多くの古い建物が残されており、さらに5000年前からある町デルベントがあります。まずはダゲスタン共和国とはどのような所かご紹介して行きました。(2-2)ではデルベントに関してまとめていきます。
要塞都市デルベント
石で作られた壁は正に古の要塞のような雰囲気を醸し出しています。主に北東コーカサスの北と南からの巨大な勢力同士の軍事上の要所として長い間緊張状態に常にありました。デルベントは特に5世紀から19世紀までの間で覇権を争う様々な勢力の攻防の地となった歴史を持ちます。
西アジアの函谷関
デルベントという言葉はペルシア語になり、閉じてる門を意味します。コーカス山脈とカスピ海に挟まれたエリアで、僅か3キロほどの幅しかないため防衛する側には非常に重宝しました。幾ら大軍を率いてきたとしても、幅が狭すぎるため寡兵でしか突撃することが出来なく、攻める側は非常に骨が折れたでしょう。中国で長い間争いの舞台となり、時には難攻不落の場所として知られた函谷関とデルベントは似たような存在だったかもしれません。
実はアレクサンダー大王は建設していない
デルベントは5000年も前から存在していた町とされており、その後に遠征してきたアレキサンダー大王が北からの勢力を対応するために門を建設したと言われています。しかし実はそれより以前にペルシアの王朝であるアケメネス朝もしくは以前にペルシア人により作られた説があるようです。
その後アレクサンドル大王によりアケメネス朝が滅ぼされる時代を迎えます。再びササン朝としてペルシアが台頭しデルベントの壁にも変化がもたらされました。ササン朝のホスロー一世の時代にはデルベントの門はより強固に改築され、壁の高さは20メートルもあったそうです。デルベントはササン朝の要塞兼港として勢力の重大な拠点として発展していきました。
ホスロー一世はゾロアスター教を信仰していましたが、内外の均衡を保つためにキリスト教に寛容な王でした。そのためデルベントは5、6世紀のコーカサス地方のキリスト教における布教の拠点の地となっていた時期もあります。
ササン朝統治以降のデルベントの歴史
ササン朝とテュルク系民族(テュルクとは後のトルコ人)の戦争により一時ですがテュルク系民族である西突厥がデルベントを統治しましたが、再びペルシア勢力が統治し返しました。7世紀半ばにはアラブ人により統治されることになり、デルベントにイスラム教が広まっていきます。
目まぐるしく統治勢力が変わる
もともとハザールとササン朝はコーカサスを巡って争いを繰り広げていましたが、ササン朝がアラブ人に滅ぼされると、次にハザールとアラブ人がデルベントを巡り争いを始めました。アラブ人の王朝であるアッバース朝の統治の元デルベントは商業や芸術面で大いに繁栄しました。
14世紀になりモンゴル帝国の流れを汲む勢力であるティムールに制圧されることになり統治する勢力が変わりました。さらに15世紀前半にはシルヴァンシャー朝が収めることになり、再びペルシア勢力が統治することになります。
16世紀にはイスラム系の王朝であるサファヴィー朝がオスマン帝国との戦いを制しデルベントを統治することになります。18初頭にはロシア帝国とサファヴィー朝の間で戦争が起きロシアが統治するが、再び別のペルシア勢力であるアフシャール朝がデルベントを奪還しました。ロシア帝国とペルシャ勢力の争いは熾烈を極め、最終的に両勢力間で平和条約が結ばれ、現在に至るまでデルベントはロシア勢力に所属している状態になります。
デルベント内で歴史の流れを感じることが出来る
デルベントの町の中には様々な歴史的背景を持った建造物が混在しています。デルベンドに大昔に建設された防壁だけではありません。キリスト教がこの地に布教されていた証である6世紀建造のバジリカ、8世紀建造のイスラム教のモスク、15世紀建造のマドラサ(イスラーム世界における高等教育機関の建造物)、19世紀建造のアルメニア正教の教会などがあります。
デルベントにいるだけで、様々な宗教的建造物を通して当時のどのような勢力が君臨していたかを窺うことが出来ます。また戦地になり易い土地ではあるにも関わらず破壊されることなく、ほぼ当時のままで残っているものが多くあるのは非常に不思議です。
ダゲスタン共和国の人に会ったら
ここまでダゲスタン共和国とデルベントに関してまとめきました。ダゲスタン共和国のある地域は常に戦地となっており、現在は戦争というフィールドでない場所で多くの優秀な戦士がスポーツを通して活躍しています。
デルベントの町は長い間要塞都市として栄えました。また歴史の縮図とも言えるほど刻の流れを感じることの出来る場所と言えます。また常に戦にされている地であるにも関わらず、建造物が破壊されなかった稀有の町と言えるでしょう。
未だにダゲスタン共和国の人に会ったことはないです。お会いする機会が来たら分からない可能性もありますが、なぜ破壊されなかったのか聞いてみたいです。またどこかで理由となる情報を耳にしたらこちらに書いていきます。
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