ダゲスタン共和国のアヴァール語詩人ラスール・ガムザートフの名言

東ヨーロッパ

ダゲスタン共和国の有名なアヴァール語詩人であるラスール・ガムザートフという人物がいます。ダケスタン共和国だけではなくロシアで知れ渡った詩人であり時おりラスール・ガムザートフの詩は歌にも使用されました。ラスール・ガムザートフがどのような人物だったか、さらに残した格言に関して見ていきましょう。

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ラスール・ガムザートフとは

最も有名なアヴァール語詩人だと言えるでしょう。スターリン国家賞、レーニン賞、国際ボテフ賞など様々な賞を授けられました。詩の中で特に有名なものはソビエトの歌となった「Журавли」などがあります。主に女性や愛がテーマになっていることが多く、短編の愛の詩から、長編の物語的な詩、哲学的なもの、エピグラム的なものなど様々な作品を残しました。正式な名前はラスール・ガムザートヴィチ・ガムザートフと言います。

ラスール・ガムザートフの出生地Хунзахъ

父はガムザート・ツアダサという人物で、彼もまたダゲスタンで有名だった吟遊詩人でした。ラスール・ガムザートフはコーカサス地方にあるХунзахъ地区の村ツアダに1923年に生まれました。11歳の頃にツアダの村で飛行機を見た衝撃を受けたようで、その時に初めて詩を作ったと言われています。

Хунзахъの名の由来

おそらくХунзахъはカタカナでは「クンザフ」もしくは「ハンザフ」と表記することが出来るでしょう。英名ではKhunzakhと記載さら「Хунзахъ」はアヴァール語になります。名前の由来には幾つかあるようで、この辺りは何度も崩壊し復興した地区であり、アヴァール語の「死して生まれ変わる」という意味合いの「Хун бахъ」という言葉が由来しているという説があります。

またアヴァール・ハンの住居にあたる地域だったため、Ханзабахъ(ハンザバ)という言葉が由来になっているという説などもあります。この地区が熾烈な歴史を歩んできためか、他にも様々な説が飛び交っているようです。

ラスール・ガムザートフの歩み

最初の師は吟遊詩人である父でした。ラスール・ガムザートフは様々な詩や、伝承などを吸収し感性を磨いていきました。ちなみに一家が住んでいた所に名にちなんだ博物館が出来、他の地にも同様に名にちなんだ学校が創設されたようです。

地元の新聞にラスール・ガムザートフの詩が掲載されることもありました。そして1943年に最初の詩集が出版されることになりました。内容はソビエト兵士に関する軍事的なテーマを扱ったものが多く、当時の若者達の武力紛争に対する考え方に大きく影響を与えたとも言われています。ちなみにラスール・ガムザートフは二人の兄弟を戦争により亡くしているようです。

ラスール・ガムザートフは教師として働いてもいてましたが、1945年に僅かな身銭と共にモスクワにあるゴーリキ文学研究所へ入学しました。環境が変わり刺激的な社会の中でロシア文学を始め世界文学の作品の研究をし、後にここで得た経験が作品に大きな影響を与えています。1947年にはラスール・ガムザートフの詩がロシア語でも出版され、その三年後にはゴーリキ文学研究所を卒業することになるようです。

詩は多くの音楽に使用されることになり、ヤン・フレンケル、アレクサンドラ・パフムートワ、ドミトリー・カバレフスキー、ユーリ・アントノフ、レイモンド・ポールズなどの有名な作曲家たちに支持されました。ラスール・ガムザートフは長期間に渡り、プーシキンを始め、ネクラーソフ、レールモントフ、 エセーニンや古典作品を母国語に翻訳をしていました。

政治的な存在としてはダゲスタン自治ソビエト社会主義共和国の最高評議会の副議長としてたびたび選出され、ソ連の最高評議会の幹部会の副議長やメンバーでもありました。ラスール・ガムザートフの名は功績を称えて、小惑星、Tu-154M(航空機)、国境巡視船、貨物船、水力発電所、ロシアのバレーボールやフットサルのトーナメント、幾つかの学校と図書館と様々な場所で使用されています。

ラスール・ガムザートフの家族

ラスール・ガムザートフの初めて愛した人物は早くに亡くなってしまい、その後彼女に自身の詩を捧げました。それからラスール・ガムザートフよりも8歳年下の女性であるПатимат Саидовна(パティマ・セイドーヴナ)と結婚し一生添い遂げました。パティマは芸術評論家でありダゲスタンにある美術館の一つは彼女の名前が冠してあります。

ラスール・ガムザートフの幾人かいる孫もまた有名な人物となっているようです。孫娘には有名な芸術家であるТаус Махачева(タウス・マハーチェヴァ)や、ジャーナリストのШахри Амирханова(シャーフリ・アミルハノバ)がいます。ちなみにシャーフリ・アミルハノバの夫Хизри Амирханов(キーズリ・アミルカーノフ)はダゲスタン共和国生まれの考古学者です。

ラスール・ガムザートフの人柄

微笑んでいる写真が多いようで、基本的に太陽のように明るい人だったのかもしれません。娘の言ではユーモアのあるジョークを放ちながら常に親切で面白い人だったらしいです。

ラスール・ガムザートフの死

最愛の妻が亡くなりラスール・ガムザートフの体調も悪くなっていきます。パーキンソン病を患っており、妻が亡くなってから3年経ち同じく生涯の幕を閉じました。ラスール・ガムザートフはダゲスタンの人々に故国に感謝し愛するようにとメッセージを残しました。

墓石に生年月日を記載しないことを希望し、唯一ロシア語で書くように頼んだ言葉は自身の名前である「Расу́л(ラスール)」でした。そして愛妻家であるラスール・ガムザートフの遺体は妻の隣に埋葬されました。

日本に所縁がある詩「Журавли(鶴)」

ヤン・フレンケルが曲を作り、1968年にМарку Бернесу(マルク・ベルネス)が歌ったЖуравли(ジュラーヴリ)は、ラスール・ガムザートフの詩のロシア語訳で書かれた作品です。

こちらの曲のタイトルの和名は「鶴」と言います。実はこの詩は日本の佐々木禎子に関する話にラスール・ガムザートフが触発されて生み出されました。佐々木禎子という人物は広島の原爆の被害者で白血病になった方です。入院中に折り鶴が送られてきて以来、彼女は鶴を折り始めました。

彼女は鶴を折り続ければ元気になると信じてひたすら鶴を折り続けましたが、1000羽折っても想いは届かず亡くなりました。この話を通して全ての戦争を否定するという考えに触発されて、佐々木禎子の像に対して詩を書きました。

映画「Мой Дагестан. Исповедь」

亡くなった後、2014年に長編ドキュメンタリー映画「Мой Дагестан. Исповедь(我がダゲスタン-告白)」が公開されました。こちらの動画でも踊っている少年が本編の冒頭でも踊っており、その独特の動きが印象的で流れる音楽と共に映像に引き込まれていきました。

故国に誇りを持って生きる

ラスール・ガムザートフはダゲスタン共和国の首都であるマハチカラとモスクワに家を所持していました。遠い昔からダゲスタンの地は強大な勢力の板挟みにあい、絶えず争いに巻き込まれ、常に様々な勢力の支配下にありました。ラスール・ガムザートフは生まれを隠すことなく、ダゲスタンにある小さな村の出身であることを誇りに思いながら生きてきました。

ダゲスタン共和国の人々は

人にもよりますがダゲスタン共和国が他の国を訪れた際に何人かと聞かれると複雑な答えになるようです。第一にロシア人、第二にダゲスタン人、第三にアヴァール人などの昔からダゲスタンの地域に住んでいた祖先の民族のことを語る人もいるようです。

ダゲスタン共和国に住む人々の共通の国籍はロシアであり、次に大枠の括りとなるのはダゲスタン共和国のためそう答えると言えます。自身がどの民族の出かということに誇りを持っている表れなのではないでしょうか。

UFCのヌルマゴメフ

ダケスタン共和国は非常に格闘技が盛んで世界でも名を馳せている格闘家が多数います。ある日記者から嫌らしい質問をされていました。「あなたはロシアを代表しているのか、それともダゲスタン共和国の代表なのか?」と。

するとロシア国旗が掲げられてるのが見えているだろうと告げました。他の国からしたら自分たちはロシアという一つの国家の人間だと言い、他の国から見れば同じロシア国民だと語りました。そして人々が分離しないことが大事だとも発言していました。

ダゲスタン共和国の人々は誇りを持ちつつもロシアの一員であることも認めて生きているいるようにも感じました。さらにヌルマゴメドフの分離しないことが大事だという部分にも非常に深みがある言葉を言っているように聞こえました。こちらの映像はダゲスタンの荘厳の自然の中でトレーニングをしてるヌルマゴメドフのシーンや子供の時に熊とじゃれ合うシーンが収められています。

ラスール・ガムザートフの格言

詩人と有名な人物だけに多くの格言を残しました。その中でも特に印象に残った言葉を幾つかご紹介していきます。どの言葉も彼の背景を考えるとなんとなく言いたいことが伝わってくるようでした。

Правило горцев: продай поле и дом,потеряй все имущество,но не продавай и не теряй в себе человека.

出展:Расул Гамзатович Гамзатов

「高地に住む人のルール:土地や家を売ると全ての財産を失いますが、あなた自身を売ったり失わないでください。」物理的な財産を失ったとしても、本当に大事なものである自分自身の中にある人間という存在そのものを失わないようにして欲しいと言っているようです。

Но ни разу не вспомнил я ту,что любил,Потому что ни разу о ней не забыл.

出展:Расул Гамзатович Гамзатов

「しかし私は自分が愛したものを一度も思い出したことがありませんでした。なぜなら私は彼女のことを決して忘れなかったからです。」一度も愛したことを忘れたことがないため、思い出すという行為に至らなかったことを言っています。

Дагестан никогда добровольно в Россию не входил и никогда добровольно из России не выйдет.

出展:Расул Гамзатович Гамзатов

「ダゲスタン人は自発的にロシアに入るわけではなはないし、自発的にロシアを出ることもありません 。」ダゲスタンの一帯の歴史を感じさせる名言であり、自身の意思でロシアの一員になったわけでもなければ、自身の意思によりロシアの一員から外れるわけでもないという意味を語っているようです。

Я счастлив:не безумен и не слеп,Просить судьбу мне не о чем.И все же.Пусть будет на земле дешевле хлеб,А человеческая жизнь дороже.

出展:Расул Гамзатович Гамзатов

「私は幸せです:気が狂っているわけでも、盲目なわけでもありません。運命に求めるものは何もありません。それでいて。地球上のパンを安くしましょう、それと人間の生活はもっと価値あるものですよ。」これは人間の価値と物質的な価値が逆転している現状を嘆き、本来の価値の基準に戻しましょうという言葉のように感じました。

ラスール・ガムザートフを知り

どのような国かまるで分からなかったダゲスタン共和国に関心を持ったのはヌルマゴメドフのインタビューからでした。あのインタビューが気になり、そもそもダケスタン共和国とはどのような所なのかが知りたくなりました。そしてラスール・ガムザートフという人物を知ることになり、どうしてヌルマゴメドフがあのような発言をしたのかより理解出来たような気がします。

ラスール・ガムザートフの作品を全て把握したわけではないですが、言葉からは複雑な歴史を経てダゲスタンに所縁のある人々はどのように人生を歩むかの道標を示しているかのようです。そしてダゲスタン人だけではなく人間はどのようなものに最も大事にすべきかを教えてくれているように感じました。

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