スペイン流剣術の魁となった人物であるJerónimo Sánchez de Carranza(ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサ)をご存知でしょうか。スペイン流剣術は中世で一世風靡し、その始祖であるJerónimo Sánchez de Carranza(ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサ)に関してまとめていきます。
Jerónimo Sánchez de Carranza(ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサ)は多才
スペインで最も有名な剣士なだけではなく、科学者でもありました。実はスペイン剣術の性質上で科学は欠かせない要素でもあります。出はセビリアの貴族であり、ヒューマニストであるため、貴族の人生の指針を示した人物でもありました。またスペインの剣術学校Destreza(デストレーザ)の創立者としても認知されています。
Jerónimo Sánchez de Carranza(ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサ)の生涯
1539年にセビリアで生を受け、セビリアとサラマンカの大学で教育を受けました。1560年にはサンルーカル・デ・バラメーダにて第7代メディナ=シドニア公爵のアンソロ・ペレス・デ・グズマン(スペイン無敵艦隊の総司令官としても有名な人物)に仕えました。
幾多の戦功を挙げる
ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサは公爵と共にアルガルヴェ(ポルトガルの最南端の地)の侵略に参加しました。アルガルヴェへの侵略は、スペイン王フェリペ2世をポルトガルの王位に導いた非常に重要な軍事作戦の一つです。ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサは功績が認められ騎士になり、キリスト騎士団の指揮官に任命されました。
指揮官を務めいた頃に、ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサは有名な論文となるThe Philosophy of Arms(武器の哲学)を書きました。その後1584年にヘロニモ・サンチェス・デ・カランサはマドリードに移り、裁判官の仕事に従事します。そして1589年にホンジュラスの知事に任命され、現プエルト・コルテス(ホンジュラス北カリブ海岸のある都市)の辺りでフランスの私掠船団を打ち負かしました。
1596年に知事の職を終え、グアテマラのサンティアゴで弁護士の地位に就任しました。定かではないですが1608年頃にグアテマラで亡くなったと言われています。幾人かの子供を設けましたが、結婚はしていませんでした。ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサの二人の息子はホンジュラスに共に渡ったそうです。
The Philosophy of Arms(武器の哲学)
1582年に発行され、剣術だけではなく哲学書の側面を持つ論文です。プラトンやアリストテレスを始め、イタリアのルネッサンス期の学者のマルシリオ・フィチーノなど様々な学者の考えを参考にしています。The Philosophy of Armsでは幾何学を始め、数学、倫理、医学などにも触れており、それを元に戦闘の哲学が語られているようです。
the pioneer of the science of handling weapons
ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサはthe pioneer of the science of handling weapons(武器取扱における科学の開拓者)と呼ばれています。ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサの教えは、弟子にあたるドン・ルイス・パチェコ・ナルバエスと、オランダ出身の剣術家ジェラール・ティボー・ダンヴェールにより引き継がれていきます。
ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサの戦場での哲学、知識、道徳観はスペインの剣術学校の発展を促し続けました。ヘロニモ・サンチェス・デ・カランサの意思はその後おおよそ300年間も引き継がれていくことになります。