イタリア宮廷指南役剣士となったフィオレ・ディ・リベリの軌跡-師匠はあのリヒテナウアー?!

南ヨーロッパ
Fiore dei Liberi

前回はフィオレ・ディ・リベリの出生に関してご紹介していきました。実はフィオレ・ディ・リベリが武術を学んだのは後世に高名な武術家として知れ渡ったある人物ではないかと言われています。今回はフィオレ・ディ・リベリがどのような半生を歩んだのかに関して見ていきましょう。

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フィオレ・ディ・リベリの軌跡

どのような日々を送り武術家としてフィオレ・ディ・リベリが頭角を現していったのか見ていきましょう。また武術家でもあるため、フィオレ・ディ・リベリはある戦争にも関与することもありました。さらに戦後のフィオレ・ディ・リベリの人生に関してもまとめていきます。

武者修行の日々

武術家は様々な場所で武者修行をしに行く人も多いですが、フィオレ・ディ・リベリも例に漏れずそのような道を歩んだようです。各地で修行をしイタリアとドイツにいる多くのの武術家から経験を得ました。ドイツではヨハンネス・スウエノ(もしくはシュヴァーベンのヨハンネスと呼ばれる人物)の元で武術を学んだ言われています。

またフィオレ・ディ・リベリは多くの質の悪い剣士とも邂逅したと言っています。そして考えの相違でたびたび決闘することになったそうです。しかしフィオレ・ディ・リベリは決闘において怪我を負うことなく常に勝利を収めたそうです。

ウディーネでの市民戦争に関与

フィオレ・ディ・リベリの戦では、1383年にはウディーネ市の市民戦争に市側の部隊指揮官として参加した記録が残っています。ウディーネ市はフィオレ・ディ・リベリが育った場所であるチヴィダーレ・デル・フリウーリに近い都市です。

ウディーネ市の和平に関する会議に開催されてから1384年の5月までの会議に出席していたのですが、その後5年間続けて会議に出席したかどうかに関しての情報はありません。そのような情報からフィオレ・ディ・リベリは5月以降の会議には思う所があり出席していないか、都合が悪くなった可能性があります。

ウディーネ市での戦いの功績が認められたからどうかは分かりませんが、その戦いのあとに武術の指南役や外交官をするようになりました。またイタリア北部で剣術を教え、様々な決闘に関与することになりました。

余生は謎に包まれている

Fiore dei Liberi(老年時代)

後世に残る現存する最古のイタリア式の武術を記した書である「戦いの花」を残しましたが、それ以降の人生に関しては謎に包まれています。フィオレ・ディ・リベリはフランスのパリで余生を送ったという話もありますが、亡くなった日や余生に関して詳しい情報はありません。おそらくフィオレ・ディ・リベリは1400年前後に生涯の幕を閉じましたと言われています。

フィオレ・ディ・リベリの師はリヒテナウアー?

「戦いの花」と呼ばれる現存する最古のイタリア武術の書を残し、ヨーロッパの剣士の中でも特に有名になったフィオレ・ディ・リベリですが、彼の師もまた非常に有名な剣士ではないかと言う説があります。師であるヨハンネス・スノウエなる人物は、あのドイツ流剣術の始祖と名高いヨハンネス・リヒテナウアーではないかと言われているそうです。

ヨハンネス・リヒテナウアー

出展:AI画伯を使用した自身の画像より引用

実際にリヒテナウアーが生まれたのは14世紀半ばと伝えられており、フィオレ・ディ・リベリとの年齢的な差を考慮すると丁度師弟関係にあってもおかしくないと言えるでしょう。しかしスノウエはドイツの人であることもからも、年代と場所はほぼ一致しています。ただその真相が明確に実証されているわけではありません。

武術家としてあり続けたフィオレ・ディ・リベリ

ここまでフィオレ・ディ・リベリの半生に関してまとめてきました。フィオレ・ディ・リベリの人生を紐解くとしばしば決闘に関わっていた情報が挙がります。若いころから武術の修行に明け暮れ、積極的に様々な武術家と交流をしていたようです。そして市民戦争への参加し、その後は様々な人々の武術の師となったようです。

「戦いの花」を残したという功績もありますが、フィオレ・ディ・リベリイタリアの武術界で非常に存在感のある人物であったと言えるでしょう。次回は「戦いの花」の詳細に関してご紹介していきます。

フィオレ・ディ・リベリの出生に関する記事はこちら

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